セカチューのテーマは純愛ではない、ということは既に何度か述べてきました。
それでは、セカチューのテーマとは何なのでしょうか。
これも何度か述べてきたような気がしますが、あらためて書きますと、セカチューのテーマは喪失感と死生観、ということになります。
このうち、喪失感についてはまた別の機会に分析するとして、ここではセカチューが取り上げている死生観について検討していきたいと思います。
三つの死生観
セカチューでは、死生観は大きく分けて3つの形態をもって、読者に語りかけてきます。
一つ目は散骨。
祖父の愛した人の骨を盗んでくる。ウルルでアキの灰をまく。
セカチューによって認知度が上がったとはいえ、まだまだ馴染みのうすい文化でしょう。
二つ目は『
「百歳の後、その居に帰せむ」。わたしもいずれあなたのもとに。
同じ墓に入ることを願う気持ちは、日本人には理解されやすいものです。偕老同穴という言葉でも知られています。
三つ目はアボリジニの文化。
生きているものにはすべて意味がある。埋葬は二回。最初は肉体のため、二回目は骨のため。
日本人にはまったくなじみのない文化でしょう。しかし、アボリジニを取り上げることでオーストラリアという場所が小説中に入り込むこととなり、小説の幅が広がってきます。
これら三つの異なる死生観がなぜ取り上げられたのか、私にはわかりません。
生きること・死ぬことの意味を常日頃から考えていると思われる作者が、自らの知識や調査の結果をよりどころにして小説を展開したからではないかと思われますが、推測の域を出ません。
登場人物の死生観
次に、登場人物がどのような死生観を抱いていた・いるのかについて考えてみます。
祖父の死生観はイメージしやすいでしょう。これは『葛生』そのものです。
一部、散骨の概念も含まれてはいますが、死んだ後に愛した人と結ばれたいという気持ちは「葛生」から来ているに違いありません。
アキの死生観は、アボリジニに大きく影響されたことになっています。
高校生らしからぬ本を読んでいるなあ、と思ったものですが、これはアキの死生観を確定させるためのレトリックでしょう。
では、サクの死生観については、どうでしょうか?
サクの死生観は、年とともに大きく変化していきます。
学生の頃は、死後の世界について懐疑的です。『ニュートン』を愛読していた科学少年よろしく、死後の世界は存在しない、と突っぱねているかのようです。
アキが亡くなってからも、サクは自らの死生観を変えることができません。ですから、サクにとっては、アキはどこかに消え失せてしまったとしか考えられません。
そのどうしようもない喪失感がもたらす絶望が、現実と向き合う力をサクから奪ってしまいます。第四章で祖父と話し合うまで、サクはこの状態です。
しかし、過ぎていく時間が、サクの死生観を変えていきます。正確には、植えつけていく、と言った方が良いかもしれません。
年月を経てサクが得た死生観とは、一体どのようなものなのでしょうか?
上に掲げた三つのどれでもなく、三つの死生観が混在したものである、としか言いようがありません。
いずれにも少しずつ似ていて、そして少しずつ違っているように見えます。
それは恐らく、アキを失ったサクが、その後の人生で考えて出した結論なのでしょう。
人はなぜ生きるのでしょうか。
死ぬということは、どういうことなのでしょうか。
苦悶の末にサクが出した結論に触れるだけでも、セカチューという小説を読む価値があろうというものです。
