いつも妄想全開で突っ走る作品分析記事ですが、今回は完全に私の妄想だけでできています。
少なくとも、そうであることを祈っています。
エッセイ集『考える元気』の紹介でも触れましたが、片山恭一先生の作品には医学を取り上げたものが多くあります。
例えば。
『雨の日のイルカたちは』では、過剰な医療と尊厳死について。
『もしも私が、そこにいるならば』では、脳死と人の死の違いについて。
『最後に咲く花』では、人工胚と先天障害について。
そして、『船泊まりまで』では代理出産と親権について。
もちろん、『世界の中心で、愛をさけぶ』とて例外ではありません。
とりあえず、以下の抜粋をご覧ください。
「無脳症の赤ん坊にも理由があるのかな」とぼくは言った。
「何よ、それ」
「生まれつき脳のない赤ん坊だよ。彼らの心臓を重い心臓障害で苦しむ子供たちに移植しようという計画があるんだってさ。それは無脳症の赤ん坊が生まれることの理由を見つけたことになるんだろうか」
「ちょっと違うような気がする。理解することは利用することじゃないもの」
上に掲げた作品群を読めばわかると思いますが、一定の倫理基準を超えた現代医学に対して批判的であるという点で、作者は一貫しています。
人間が人間らしく生きるためには、過剰なものをテクノロジーに求めてはならない。まるでそう言っているかのようです。
抗白血病剤にたいする反応が悪いのではないか、と本で仕入れた知識を引き合いに出して思った。この治療がうまくいかなければ、骨髄移植でもしないかぎり治癒は望めない。
まだ日本国内に骨髄バンクがなかった時代という条件つきではありますが、骨髄移植について記されているのは、この一箇所のみです。
作者は骨髄移植についてどのような見解を持っていたのでしょうか。
まさか......?
『世界の中心で、愛をさけぶ』の映画やドラマが公開された2004年、骨髄バンクのドナー登録者数が20万人を突破しました。
背景にセカチューブームの存在があったことも、上の記事にはっきりと記されています。
私は、骨髄バンクの存在意義を疑ったことは一度もありません。
ええ、これからもないでしょう。
でも、医学と倫理について考えるとき、どこかに線を引かなければならないとしたら。
そんな「医療」を切に望む人達の前で、無情にも一本の黒い線を引くとしたら。
あなたなら、どうしますか?