久しぶりの更新になります。
もちろん、このサイトのことを忘れていたからではありません。その証拠に、今日は十二月十七日。
あんなに元気だった恋人が死の病に冒され、夢破れて空港で倒れてしまうまでの四か月。
それと同じだけの空白をこのサイトで体験していただいたことになるわけですが。
その四か月のうちに、私は小説の技法の研究などをしておりました。
読む側ではなく、書く側に立った小説の分析。なかなか新鮮な体験です。
時系列をひっくり返した物語を書くのが想像にも増して困難だということを、私は今回の分析で痛感しました。
その一方で、思ったよりも簡単に書けるのではないかと僣越ながら思ったこともありました。
たとえば、『世界の中心で、愛をさけぶ』でも多くの箇所で見出される繰り返しの構造などです。
小説中の実にさまざまな場面で、この繰り返しの構造を見いだすことができます。
最初と最後に城山に登ること、ラジオの番組に耳を傾けること(リクエスト葉書の場面と夢島の場面)、主人公が病院へ見舞いに行くこと(大木とアキ)など。
残酷なところでは、冗談めかして書いた内容が現実のものとなってしまうことや、三人で夢島に渡ったこと――ただし、二度目の時にはアキはもうこの世にいなかったのですが。
すべてを列挙するのはここで割愛させていただきますが、このような繰り返しが他にも十から二十は隠れているはずです。
このような小説を書き上げるのは一見難しいことのように思いますが、実際には入念な設計を事前に行うことによって、意外と簡単に繰り返しの構造を組み込むことができます――もちろん、文芸作品として面白いものに仕上がるどうかは、また別の話です。
たとえば、このようにします。
まず、小説を書き始める前にストーリー(正確にはプロット)を場面に分割します。
『世界の中心で、愛をさけぶ』がどれだけの場面から構成されているか。ここでは検討しませんが、経験則と全体分量から見積もると60~70場面といったところでしょう。
次に、それぞれの場面についての情報を整理していきます。
たとえば、第一章第1節、場面番号1。
場所。主人公(サク)の自室からケアンズ行きの機内まで。
日時。1993年2月のある日、朝から午後まで。
登場人物。サク、サクの両親、アキの両親、それにアキの遺灰。
概要。目が覚めると泣いている主人公、恋人の灰をまくために恋人の両親に同行してオーストラリア行きの飛行機に乗る。無常感をただよわせる主人公。
こんなところでしょうか。この作業を、中学校の校庭でのラストシーンに至るまで余すところなく続けていきます。
すべて完了したら、全体を一枚の表にまとめて俯瞰してみます。
ここからが、繰り返しの構造を組み込む作業になります。
たとえば最初の場面で、ドライブインから眺めた青い海を描写するとします。
しかし、海が登場する場面は他にもあります。有名なところでは夢島とか。あるいはケアンズとか。
複数の場面で繰り返しを用いたければ、該当するそれぞれの場面の「伏線」欄に同じキーワードを書き込んでおきます。
たとえば第三章第8節、場面番号50(適当です)。ここに「青い海」と書いておきます。サクが夢島を回想する場面に現れる海の描写を、場面番号1のそれと同じにするわけです。
何も欠けていなかった海と、アキだけが欠けた海。繰り返しは対比となって、私のような読者の胸を打ちます。
もう一例だけ挙げます。
たとえば、ラストシーンの「伏線」欄には当然のごとく「灰をまく」というキーワードが記されているでしょうが、場面分割表に「灰をまく」と記されている場面がラストシーン以外に少なくとも4箇所あるはずです。
墓を暴いた後で祖父がサクに頼み込む場面。サクがアキの両親とウルルで実際に灰をまく場面。大木と二人で夢島に向かう場面。
そして最後は――古文の授業で使われた『竹取物語』です。帝が山の頂で不死の薬を焼く場面、あれは「灰をまく」の伏線として用いられているのです。
片山恭一先生がこのような方法で小説の基本設計をしたのかどうか、確認したわけではないので定かではありません。ただ、しっかりした構造の小説を書こうと思うのであれば、同種の作業を欠かすことは絶対にできません。
少なくとも、そう信じるに足りる理由を私は持っているのです。