あらすじ
主人公(学生)は、同級生の恋人を狂信的に愛するが、立ちふさがる現実の壁を前にして挫折してしまう。
何事にたいしても前向きになれなくなった主人公が、ある日ジョン・レノンの夢を見る......。
心は届かない愛の世界に捉えられ、一方で生身の身体は現実に生きる身近な女性を求める。
セカチューをはじめとする片山恭一の小説が村上春樹の影響を受けている、と指摘する人が多いのは承知しています。しかし、この『ジョン・レノンを信じるな』のプロットは、本当に『ノルウェイの森』と非常に良く似ています。そう思わざるを得ません。
ジョン・レノンといえばビートルズ、そして『ノルウェイの森』(*)もビートルズ。うーん......。
* 細かい表記にツッコミ入れないでくださいね。
現実感を喪失した青年の心理描写
ここはセカチューファンのサイトだと自認していますので、村上作品との比較は省略、または次の機会に任せるとします。
だから、比較するのはセカチューと、です。
夢を見ていた。どこまでが現実で、どこからが夢なのか、よくわからない夢だった。死後の世界のようでもあった。本当は死んでいるのに、夢だと思い込んでいるのかもしれない。何度かぼくはそう思った。なぜなら夢のなかには、ジョン・レノンが出てきたからである。
たとえば「海」という言葉を思い浮かべてみる。真っ青な夏の海だ。すると「海」は、いたずらに眩しく、眩しさは細かなガラスの破片となって、頭のなかに突き刺さってきた。なぜなら「海」という言葉には、可能性がないからだ。もう二度と再び、玲と一緒に海を見るという可能性が絶たれてしまっていたからだ。
現実感のない、あるいは現実と切り離されている心象の描写はこのとおり。
セカチューでも似たような描写がありましたよね?
言葉は不完全なものだ。すべての事象を言葉で埋めてしまうことはできない。死はどうやっても言葉では埋まらない部分だ。それをぼくたちは悲しみや寂しさといった感情で埋めていく。人間の感情というのは、そんなふうにしてできている。
死にかんする主人公の見解。
セカチューでは、祖父がこのようなことをサクに話していましたっけ。
『ジョン・レノンを信じるな』(単行本)が出版されたのは1997年。セカチューの一つ前の小説に相当します。
このことは、『ジョン・レノンを信じるな』のテーマとなっている「喪失感からの回復」を別の視点で表現しようとしたものがセカチューである、という見方ができるということです。
人はなぜ喪失するのか?
この小説、いろんな人物のエピソードが断片的に、かつ不連続に描かれているため、かなり取っつきにくいものとなっています。共通しているのは、描写の中心となっている人物がいずれも現実感を伴わない世界に生きていること......でしょうか。
それらの人物は、以下の3つのタイプに分類できます。
第一に、現実からドロップ・アウトしてしまうタイプ。小説中でも言及されている『ライ麦畑でつかまえて』の主人公・ホールデン、それにマスターがこのタイプに属します。
第二に、狂気の世界で行動してしまうタイプ。ジョン・レノンを射殺した犯人がその典型で、バスケット・コートで出会った人物も恐らくこのタイプ。
しかし、主人公は上の二つのどちらでもない、第三のタイプに属するものと思われます。それは、どのようなタイプなのでしょうか?
「昔からずっとそうだった。みんなわたしに質問するんだ。キリストをどう思うか、ベトナム戦争をどう思うか、ポールの新作をどう思うか。どうしていつもわたしなんだ。どうしてきみじゃないんだ。問いかける相手はきみ自身だ。わたしじゃない」
「多くの人があなたの考えを聞きたいと思っているんですよ。あなたの新しい歌を聴きたいと思っているように」
「世界中のどんな人の心のなかにも、自分の歌があるはずじゃないか。どうしてその歌に耳を傾けようとしないんだ」
「あなたの歌には、聴き手の一人一人に自分のことをうたってくれていると思わせる魔法がひそんでいるんです」
「不健康なことだ。一人一人が自分自身のリアリティのなかに降りていくべきだ」
小説中から抜粋してみました。
夢の中での、主人公とジョン・レノンとの対話の場面です。
ジョン・レノンとは、何を象徴しているのでしょうか?
「ジョン・レノンを信じるな」とは、一体何を意味するのでしょうか?
第三のタイプとは、現実社会に向かって歩きだすタイプです。
そして、偶像としてのジョン・レノンがあくまでも非現実の世界にいると認識させることによって、喪失感からの回復を促すのが、この『ジョン・レノンを信じるな』という小説なのだと思います。
