作家が書いてはならない「テーマ」の本
ひとことで言えば、片山恭一のエッセイ集です。
しかし、最初にこの本を手にした時、私はその目を疑いました。
奥付をひっくり返して発行日を見て、一度安心して、また驚き直しました。
この本自体は2004年の刊行ですが、その前に新潮社から刊行(当時の題は『DNAに負けない心』)されています。時期はなんと2000年10月。年表をご覧になればわかりますが、当時出版されていた片山恭一の小説はわずか二冊しかありません。
わずか二冊しか書いていない作家が、この本の中で人生哲学について滔々と語るわけです。
内容は実にしっかりしています。しかし、「こんなことして大丈夫か?」と率直な感想を抱いたのは確かです。
全三章の構成で、各章にはそれぞれサブタイトルがついています。
第一章「教育について」は、これからの子供たちに何を伝えていけばいいのかがテーマ。
第二章「市民社会で生きること」は、現代社会が抱く病巣への指摘がテーマ。
そして、第三章「テクノロジーの処方箋」は科学技術の盲信への警鐘がテーマ。宗教観・死生観に関する意見もこの章で取り上げられています。
ここまでご覧になって、わかりましたでしょうか。
作者が小説で取り上げている内容と完全に一致しているということが。
私の小説のテーマはこれこれです、などということを小説家は決して書いてはなりません。
少なくとも、小説中に書くのは厳禁です。あとがきに書くのもダメです。
だって、野暮でしょう? クライマックスのあとで主人公なり恋人なりが「恋ってさ、結局○○だよね」とか言うなんて。
そういうのは小説の中でほのめかすものであって、明記するものではありません。
この『考える元気』は小説ではありませんから、ある作家の小説のテーマが詳細に記されていようが構わないのですが、それでも私には驚きです。
どうしてこの本を書いたのか。どうして、セカチューが売れたあとになって、わざわざ改題して別の出版社から刊行される運びとなったのか。
セカチューのテーマを誤解する読者が多すぎたから、なんて思うのは邪推なのでしょうか。
この少女のなかで、死は自分(と神様)だけのものとして完結している。彼女の認識のなかには、娘を自分たちよりも先に亡くさなければならない両親の気持ちは、まったく繰り込まれていない(ような印象を受ける)。そのことが私を「たまらないな」という気持ちにさせるのだと思う。もちろん活字になったインタビューだけで、彼女の本心はわからないし、本当はそんなことはないだろうとも思う。でも、もし彼女が本心から、インタビューで語っていたように思っているのだとすれば、もし一抹の含羞も呵責もなくそう思っているのだとすれば、そう思うことを可能にした「神」の観念は悪いものだと思う。
子供の死が悲しいのは、たんに若くして死んでいくからだけではない。私が入院していたとき、隣は小児科病棟だった。そこには癌や白血病の子供たちがたくさん入院していた。病院の建物の構造から、日に幾度となく、私は彼らのあいだを通り抜けることになった。病気のせいか、年齢に関係なく、子供たちはみんな老成した雰囲気を漂わせていた。そんな子供たちが、テレビルームの椅子に一人でぽつんと坐って、なんとも言えない深い表情を浮かべていることがある。彼らのことを見ているうちに、私はしだいにこう思うようになった。みんな知っているのではないか。どんなに幼い子供でも、たとえ死を正確に理解できないほど幼い子供でも、自分の行く末が親に深い悲しみをもたらすことを、彼らは知っているのではないか。親たちの自分への態度や接し方を敷衍したところで、子供たちは本能的にそれを感知してしまうのではないか。
第三章から抜粋してみました。
正直に申し上げます。ここを読んで背筋がぞくっとしました。
これだけの覚悟をもって、死を扱った小説を書いているんだということを思い知らされました。
「セカチューは『お涙ちょうだい小説』だ」なんて言う人は、『考える元気』を読めばいいのに。
私には自然科学と十七歳の少女が、死にかんして同じ迷妄に閉じられているように思える。「お子さんは神様のもとへ召されました」という説明に納得できないように、「お子さんは原子に分解されて終わりました」という説明にも、やはり納得できない。どちらがましというのではなく、どちらも同じ程度に納得できない。『聖書』の合理をもってしても、自然科学の合理をもってしても、大切な「その人」を失うということの意味は変わらない。要するに「諦めろ」ということだ。「諦めろ」と言われて諦められるような関係なら、最初から関係自体が諦められていると言うしかない。この世で遂げられなかったことは、あの世へ持ち越してでも遂げてみせよう。そのための「あの世」は俺がつくる、ぐらいのことを私たちはなぜ言えないのか。
光文社
定価: ¥ 500
