あらすじ
主人公は高校生の男の子で、同級生のガールフレンドにゾッコン(死語)。恋愛感情を突っ走らせるあまり、恋人との結婚を口にするものの、恋人本人を含む周囲の理解が得られない状況。
ところが、恋人は重い病気になって入院してしまいます。思い悩んだ主人公は、恋人を病院から連れ出す"愛の逃避行"を計画するのですが......。
まるでどこかで見たような展開ですって?
確かに、セカチューに似ていないこともありません。『きみの知らないところで世界は動く』(以下、キミセカ)が「セカチューの原点」と評される所以でしょう。
以下、セカチューとキミセカの共通点を足掛かりとして、この小説の評価をしようと思います。
共通する舞台装置
セカチューは、宇和島(作者が高校時代まで住んでいた街)と福岡(作者が大学時代に住んでいた街)が混在した町がモデルだと言われています。
一方、キミセカの舞台は非常に明確です。宇和島以外にあり得ません。小説中に登場する細かい固有名詞のことごとくが、宇和島の町を指向しています。たとえば鉄道唱歌の碑(作者の大和田建樹が宇和島出身)というマニアックなスポットもあれば、あの城山も登場します。それだけではありません。以下の記述(第二章の3)をご覧ください。
十七歳の高校生がはじめて体験するダブル・デートの場所として、ぼくはT海水浴場を選んだ。海がきれいだとか、人目を遮る藪や林があるといった理由の他に、船で行かなければならないというのが最大の理由だった。
宇和島から船で行かなければならないT海水浴場。手持ちの地図で隈なく調べました。高島海水浴場以外にありません。
高島は、セカチューの夢島のモデルとなった島です。しかも、ダブル・デートで海水浴に行く予定だったところまで、見事に一致しています。
共通する設定
夢島の話で思い出しました。
主人公が恋人とセックスするためのお膳立てを友人がセッティングする場面があります。そんな設定まで共通しているんですね。
夢島のようなロマンティックな場所ではなくて、ジーコ(主人公の友人)の下宿の汚らしい一室だったという違いはありますが、主人公と恋人にとっての大事な思い出であることには変わりはありません。
思い出の下宿が取り壊されることになった時の描写より。
「そろそろ行こうか」ぼくは声をかけた。
「うん」と言いながら、カヲルはまだその場を立ち去りかねている。
「どうしたの」
彼女は小さく首を振った。やがて消え入りそうな声で、「この下宿、忘れない」と言った。目が合うと、下を向いて心なしか顔を赤らめた。
こういう表現を読んでいると、なんだか胸がきゅーっとしてきます。
セカチューにはない青臭さが横溢している点にキミセカの魅力がある、と評した人の気持ちがわかります。
作者の青春時代の投影
ところで、作者(片山恭一)は1959年1月5日生。早生まれになりますので、主人公・カヲル・ジーコが高校二年生だった1975年には、作者も高校二年生だったということになります。
そして、舞台となった高校のモデルとされる宇和島東高校は、作者の母校でもあります。
「キミセカは作者の青春時代を投影したもの」と断言してよいでしょう。
小説中のエピソードのいくつかは、恐らく作者自身の体験談でもあるのでしょう。
片山作品のテーマ
セカチューとキミセカの最大の共通点は何でしょうか。
私は、テーマが共通していることだと考えています。
もちろん、キミセカは純愛小説ではありません。それは、セカチューが純愛小説ではないのと同様に明らかです。
ただし、青春を描いた小説だとは言えるでしょう。セカチューが青春を描いた小説であるのと同様に。
「人を愛するとはどういうことか」の先に「生きるとはどういうことか」を問いかけてくるのが、片山恭一の小説に一貫しているテーマです。
いずれ、他の作品を取り上げる際に触れていくことになるのだと思います。
恋人の病気や友人の死を契機に、人生について考えることになる主人公。
「その先」がどうなるのか、小説にはまったく描かれておりません。想像力をかきたてるところまで、セカチューとキミセカは共通しています。
余談
この小説は、2005年11月にNHK(松山放送局)にてドラマ化されました。
若きカヲルを演じたのは前田亜季。この人の漢字を「亜紀」と間違えてしまう人が多いのではないかと心配するのは私だけ...でしょうね、きっと。
ちなみに私、このドラマを見損ねてしまったので、詳細は知りません。
しかし、素晴らしい作品に違いない、と想像しています。
